福崎という土地
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少年時代の國男君はいつもお母さんの尻にくっついていて、遠くまで行くなどの冒険はできなかったそうです。
それというのは、百年前の國男少年が育ったころの福崎地方は、自分の部落から隣の部落まで出かけて行くのも子どもにとっては恐ろしかったのです。それぞれの部落にはガキ大将の子がいて、他部落の子が自分らの縄張りにやってくると、仲間をひきつれてけんかを売りに来たからです。そういう國男君だって、辻川の村の犬をつれて隣部落の犬とけんかをさせに行ったこともあるのです。でも、いくらおもしろそうでも遠い山つきの部落まで行くことはできませんでした。
國男君のすむ辻川は、福崎地方の中心で町がかったところになっていましたが、あいにく山と言えば鎮守の鈴ノ森神社の裏に浅い松林の丘があるだけでキツネもイノシシもすんでいません。マツタケは出ましたが、それは子どもが勝手に取ることはできないし、西に流れている市川で泳ぐことはできましたが、夏の短い期間だけで流れが早く、たまに3、40センチのコイがとれたりすると二ケ月も近所の話題になるほど動物は少なかったのです。
鈴ノ森の丘はつつじが美しく、ごちそうを持参して家族での山遊びをする場所でしたし、福崎地方をとりまく山なみが見渡せますが、その山々も当時は草山で黒く樹木の茂ったところは少なかったようです。だから川にも土砂が流れ出して川底が上がり、ひでりには田の水がかれ、稲の収穫も少なくて農村でも食物が乏しかったのです。そういう年には高い山頂で雨乞祭が行われ、夜は山に上っていくたいまつ行列がきれいに眺められたと、國男さんは後になって思い出を語っています。
山がないかわりに辻川は、中国街道と生野街道とが交差して、姫路・津山・豊岡そして大阪など各地から新しいニュースが旅人、人力車、行商人などによって運ばれてきました。
活きた鯛や海老がはねるのも國男君は海に行かなくとも見ることができて、遠い世界へのあこがれをかきたてたことでしょう。後年柳田國男は、自分の故郷はごく平凡な風景だが、日本にも稀なよい土地だったと書いています。